『私が私であることも変えられぬのなら』
最近忙しかったので、
やや更新の頻度が下がってしまってました。
仕事が忙しい。
家事が忙しい。
行事で忙しい。
バイトが忙しい。
たくさんの忙しさの種類はあるのだけれど、
ぼくの「忙しさ」は、「私が、私で忙しい」という感じでした。
何を抽象的に書いてるんだと思われるかもしれません。
僕もそう思います(笑)
しかし「私が、私だから忙しい」と言うのは意味が分からないけど、
どうもしっくりとくるのです。
どうやら、「私は」他人のことで忙しくはなれないようなのです。
もちろん、仕事を頼まれたり、誰かを手伝ったり、友人のことで頭を悩ませたりはします。
簡単の言葉で言ってしまえば、「頭の中が忙しい」ということなのかもしれません。
しかし同じ境遇で、同じ状況で、
もし、「私が」他の誰かならば、こんなにも心を忙しくさせる必要はないのかもしれません。
そうなのです。
今直面している事柄や事実が私を忙しくさせているのではなく、
どうやら、「私が」私を忙しくさせているようです。
それに気付いただけでも、
少しゆっくりと出来そうです。
失恋でもハッピー
起こった出来事が私を忙しくさせているのではないのなら、
失恋してハッピーということもありうるのです。
失恋の言葉だけで、「かわいそう」「悲しい」の言葉を連想してしまいそうですが、
その事実と私の中の忙しさは関係ないのかもしれません。
「忙しさ」とは何でしょうかね。
簡単に口から出てしまうこの言葉にまるで、自らを洗脳してしまっている感覚があるのかもしれません。
「悲しい」と言葉にすることで、悲しくなってしまうような。
「寂しい」と言った瞬間に、寂しさを感じてしまうような。
何とも言えぬ感覚があります。
「愛しい」と思えば、途端に人は愛を感じるのかもしれません。
『私が私であることも変えられぬのなら』
『私が私であることも変えられぬのなら』
『起こった事実も変えられぬのなら』
言葉は変えることは出来るのかもしれません。
「悲しい」と思えば悲しくなるのなら、
「愛しい」と想い愛を感じてみる。
「不幸」を原因に自分を不自由に閉じ込めてしまうのなら、
「幸福」を理由に自由に生きてもいいのです。
「別れ」を終わりと感じるのか?
出会いのはじまりと考えるのか?
終わりをエンディングと思うのか?
それとも新しいSTARTとして行動していくのか?
人はどんな風にだって思い、感じて、想い、受け止めて、
人はどんな風にだって生きていけるのです。
人は何だってなれるのです。
counselingtimes.hatenablog.com
counselingtimes.hatenablog.com
《コメントは下記の「コメントを書く」をクリックして頂くと、メッセージを書けるようになっております。》